敗戦を迎えた日本人を魅了した舶来品は、アメリカ製品だった。服飾評論家の南静は、戦後の日本をこう振り返っている。女性の衣生活においても、複雑な障壁なしにアメリカのファッションの影響が直接、なまの形で受け容れられた。(中略)占領期間中の数年間、日本はアメリカの植民地のようにアメリカのファッションに支配される。(婦人画報社『ファッションと風俗の70年』一九七五年)百貨店の多くは進駐軍に接収され、PXCPostExchange進駐軍関係者向けの購買部)になり、それとは別に、民間の外国人が利用するOSSも開設された。アメリカンライフスタイルを彩る店の出現である。銀座の松屋は全館PXだったし(メルサで一般客向けの商いを行っていた)、大阪・心斎橋のそごうもそうだ。東京の高島屋にはOSSの売場が設けられていた。PXやOSSで買い物できるのは一部の人間に過ぎなかったが、品物はこっそりと闇市に流れていたため、日本人がアメリカ製品を買うことは不可能ではなかった。また、一九五〇年に勃発した朝鮮戦争による軍需で、日本の産業界は活気を取り戻しつっあり、景気の上昇とともに舶来品を購入する日本人は着実に増えていった。こうした日本人を対象に舶来品を販売していた店の一つが、有楽町のサソモトヤマだ。闇屋出身の茂登山長市郎(現会長)が五五年に開設した店には、アメリカの商品がずらりと並んでいた。ノックスの帽子、スポルディングやウィルソンのゴルフセット、ジッポーのライター、レイバソのサングラス、パーカーやシェーファーの万年筆卜。腕時計だけはロレックスやオメガなどスイス製品が多かったが、中心はあくまでアメリカのブランドだ。アメリカ以外の国のブランド品を調達することは、ごく限られた高所得者層を除いて、当時はまず不可能だったのである。茂登山は次のように述べている。昭和20年から30年までの10年間は、日本の中の舶来品は九九%がアメリカ製でした。これを私は、″GI文化の時代”と名付けています。GIを通して入ってくるアメリカの商品がすべてでしたし、もちろん我々に高級な物は手に入らなかったわけですが、色々なブランドを覚えることもできました。彼らは私にとって、先生としての役割も果たしてくれたのです。(大内順子・田島百利子源流社『20世紀日本のファッション』一九九六年)その後、日本ではじめてフごフガモやロエベ、セリーヌ、ダッチを扱い、ヨーロッパのそうそうたる高級ブランドを集めて、海外の一流品ばかりを売る店として高い評価を得るサソモトヤマも、当時はアメリカの舶来品、今から考えれば、必ずしも「高級」とはいえないブランド品が多い店だったのである。